単純2015年12月02日 12:15

遅刻をする
宿題をやってこない
勉強から逃げる

などなど・・・

決して彼らは、周りを困らせてやろうと思ってやってない。

目の前のことに対して、快不快で判断しているだけ。

特に男子はそう。


こうするとどうなる?という洞察までに至らない。
目の前のことに対して、純粋に判断しているだけ。

こういうのを世間では「単純」というのだけど。

言い方悪いけど、ある意味イヌみたいなもんで・・・(^^;)


あまり中学生くらいのやることに、いちいち目くじら立てない方が、精神衛生的によろしいと感じた昨夜。

250点の壁2015年12月06日 11:39

中学生の定期テストは終了。

結果を聞く。


毎回生徒に言っていることだが、5科目で250点以下は、基本的に努力不足。
平均点なども毎回違ってくるので一概には言い切れないが、出される範囲も、出され方もわかっているテストで、何回もこの点数を取ると言うことは、「勉強してない」と言わざるを得ない。

現実、提出物もギリギリまでやらないとか、一部出してないとか、出したとしても不完全とか、指示に従ってないとか、まあ、やる前から結果は見えている。


ただこういう子たちに、勉強のやり方を教えれば即改善するかというと、なかなかそうならないところに、問題の根深さはある。


勉強のやり方を教えることで改善できるのは、250点を超えてからというのが実感。


やはり彼らは、勉強以前の阻害要因が多すぎる。
たとえるなら、陸上競技で、きちんと運動着を着てスタートラインに並べていない状態。


・整理整頓ができない。(この場合、きれいにしなくても良いが、最低限、必要なものがすぐ見つかる状態にしておくこと)
・時間にルーズ。
・夜更かしの朝寝坊

などなど

彼らがそこまで培ってきた文化に起因するから難しい。


これを根本的に改善するのは、本人の自覚と家族の協力がないと難しいと思われる。

もし乗り越えないまま惰性で進学し、いわゆる高校デビューなどしてしまうと、ますます難しくなるのは事実。無事に3年間で卒業できるのか?という問題にもなりかねない。

勉強なんかしなくても・・・は真実ですが、選択肢は確実に減る。

そのことの不利益に気がつくのは、大概あとになってから。

目の前の快不快が判断基準から、いったいいつ抜けるのか?
ある意味永遠の課題。



ちなみに余談だが、次の壁は350点。
250を超えれば、350までは比較的簡単に到達が可能。

二者択一2015年12月08日 14:29

中学生は三者面談。
3年生は、内申点が確定。

私立の併願、もしくは単願を決める時期。

ここで単願を決めて、比較的楽に通過を考えるか?
それとも併願で保険をかけて、志望校に挑戦するか?

二者択一

個人的にはギリギリまで頑張って受験させることを勧める。
こういう機会って、人生においてそう何回もないから。

何より、進学後がまるで違ってくる。


本人の覚悟が最も大事だが、周りの大人の覚悟も試される。
サッサと決めて閉まった方が精神的には楽だが、最悪二次募集も覚悟の上で挑戦させるのは、大人にとっても見ていてつらい。

しかしここは、心を鬼にして取り組ませて欲しい。


もちろん単願では入れる学校が、本当の意味で「本人の」(親のではないのは注意)志望校なら別だが、自分の経験上そういうパターンはそれほど多くない。


ギリギリでの苦しみは、間違いなく大きな経験になる。
安易に進学すると、安易な結果になりやすい。
特に男子はそう思う。

受験の神様2015年12月20日 15:18

2学期もそろそろ終わり冬休み。
中3受験生は内申も確定し、最後の追い込み。まとまった学習時間がとれる最後のチャンス。

例年、都立高校の場合、12月の模擬テストの結果を見ながら、倍率予想を加味しながら、合格ラインを予想する。

5科目〇〇点くらいとれれば、合格できるだろう。

現状〇〇点くらいだから、あとどのくらいの上積みが必要か?
そんなことを一人一人考える。

そして当人には、希望的憶測で、当日に向けての上振れも考慮して、比較的楽観的な予想を出しておく。
安心させすぎてもダメ、自信をなくさせてもダメ、そのギリギリの線引きが難しい。


しかし、この楽観的予想が比較的当たりやすい場合とそうでない場合がある。


有り体に言えば、志望校の学力レベルに比例する。

下の方ほど、上振れがおこりにくい。予想以上に下がることも多々ある。

中堅下位以下狙いで、当落ラインギリギリの所にいる場合、その傾向が激しい。



受験の神様はいると思っている。

記号問題だったら、当たることもあるじゃん♪
と思うかもしれない。

確かに数問はあるだろう。しかしこれだけは断言できる。


「大勢をひっくり返すほどにはならない」


受験というのは公正で、おおむね普段の実力通り出る。

下振れしてしまう生徒と言うのは、普段の定期テストでも、なんとなくしか勉強してない。提出物さえまあやっとけば、なんとかなるだろうと思っている。
一生懸命暗記物を覚えるとか、しっかりノートをまとめて整理するとか、解けない問題を繰り返しやるとか、そういう当たり前の努力をあまりしてない。
そうやって積み重ねてきた成績。

その成績を持って受けようとする受験。
受験勉強も、同じようなペースでやってしまう。
なんとかなるだろうと、なんとなくやっているだけ。

本当の意味での苦しみを経験してない。

申し訳ないが、受験の神様はほほえんでくれない。


まあそれでもなんとかなってしまうのが高校受験ではあるが、結局問題を先送っているだけ。


自分を変えるチャンスというのは、そう何度もあるわけではない。

せっかくのチャンス、生かすも殺すも自分次第。
神様は見ているんだと思う。

英語はbe動詞から入った方が良いと思う2015年12月27日 19:14

中1から教科として英語を習う。
で、うちの生徒が使っている教科書で、最初に出てくる文章が

I like soccer.

Really? I like soccer,too.

である。

意味としては問題ない。簡単に覚えられる。

しかし、これでは応用がきかない。

次のページではさらに

Do you like~ と疑問文になっている。


たぶんこのあたりまで進んだところで、隣同士で、自分が好きなモノを話し、相手にも質問してみましょう という授業展開があると思う。


それはそれで良いのだが、そこまでで終わってしまうのが大半だろう。


文法的な説明があまりないのである。



I like soccer.の疑問文が、なぜDo you like soccer?で 否定文が I don't like soccer.となるのかの説明が、生徒にあまり浸透してない。

そしてそのまま、次にbe動詞が出てくるともう混乱が始まる。

I am like soccer. という間違いを平気で犯す・・・

このままの状態で現在進行形あたりに進むと、もう完全に詰む。

そんな生徒を何人も見てきた。


やはり英語の導入はbe動詞から入るべきだと思う。
疑問文は、be動詞を文頭に持ってくれば良いし、否定文はbe動詞のあとにnotを入れれば良い。
DoやDoesという余計な単語を思い出さなくて済む分だけ、疑問文と否定文の構造が頭に入りやすい。
そして、主語と動詞の関係も、be動詞だとまずは3つしかないので、明確に見つけられやすい。これが一般動詞だと、その都度単語を覚える手間が入る。いきなり文章を見て動詞を見つけるのは簡単なようでいて難しい。

初学者はできるだけハードルを下げて、英文の構造をしっかり頭に入れることから始めるべきである。

これが済んだら次は一般動詞。
be動詞とちがったルールで疑問文、否定文を作ることがスムーズにわかってくる。

さらには動詞の動作の対象である目的語が出てきて、そちらの導入にも入りやすい。

英会話としてなら、I like soccer. Really? I like soccer,too.でもよいが、きちんと文法を教えないと応用が全く利かない。
ただ単に覚えろ覚えろだから、英語がイヤになる。

今の教科書を見ていると、会話をさせたいのか?きちんと英文を読ませたいのか?どっちつかずの中途半端になっている気がしてならない。

なお、教科書によってはきちんとbe動詞から入っているのもある。個人的には、こちらにさっさと変えてもらいたい気分。

中3になっても文法がいい加減な生徒が散見され、直すのに手間がかかる。
ルールも知らずに英語に取り組めなど、英語嫌いを増やすだけ。
文法というのは、先人が日本人の英語学習をよりよくするために体系化したものなのだから、軽視せずきちんと学んだ方が良い。

ネイティブみたいな発音を上っ面でまねしたところで、いったい何の意味があるのかと思う。


ちなみに、大学受験生であっても、中学の文法を馬鹿にせずきちんとやっておくことを勧める。本当に漏れていること多いから。

自己責任は、無責任でしょう2015年12月31日 12:10

中学生くらいを見ていると、体は立派な大人に近づいているけど、中身はまだまだ・・・

特に男子はその傾向が顕著。


まあ、このアンバランスさが、この年代の危うさでもあるし魅力でもあるが。


しかし彼らに、安易に自己責任論を振りかざすのは、やはり大人として無責任と言わざるを得ない。
確かに成績が悪い場合、間違いなくその原因は本人。

これは認める。

でも、自己責任だからおまえが悪い、では当人の逃げ道がなくなる。

よほどのことがない限り、成績悪いのを狙っているわけではない。悪くして周りを困らせてやろうなんて思ってない。



まだまだ幼いのだ。
幼いが故に、快不快が判断基準。

しんどそうなことは避けてしまう。

それ故の結果と言うことは、往々にしてある。


だからこそ、安易に自己責任論を振りかざしてはいけない。
それは大人として無責任だと思っている

まして、教育に携わろうとしている人間ならなおさら。


現状をまず認める、許す。

その心がないと当人が救われない。


成績に限らない。遅刻、忘れ物等々、生活上のことでも同じ。
正論を吐いていたずらに追い込まない。

基本は笑い飛ばす、位でも良いのかもしれない。

私なんか、ようやくその術を覚えました。
当人もわかっているので、イヤな気持ちにならない。
必要以上につつかれると、ふてくされる可能性もある。


寛容さや大らかさは、教育において必要なことだと考える。
逆に言えば、今の現場にこれが足らないのかもしれない。



というわけで、このところあまり更新できてませんでしたが、今年も一年無事に終わりました。ありがとうございました。

来年も淡々とやっていきます。
よろしくお願いします。良いお年を。